「離婚しよう、彼女が戻ってきたんだ」 結婚二周年を迎えた霧島弥生は、宮崎瑛介に薄情にも捨てられてしまった。 彼女は黙って妊娠確定の診断を握りしめて、その後姿を消した。 思ってもみなかったのは、宮崎瑛介がその日から気が狂ったようで、世界中彼女を探し回っていた。 ある日、彼はずっと探していた女が、小さな子供の手を引いて楽しそうに通り過ぎたのを目撃した。 「あれは誰の子なんだ?」 宮崎は目を血走らせ、叫び声を上げた。
View Moreソファはかなり大きく、弥生が横になってもまだ余裕はあった。でも、見た目にはかなりスペースが埋まったように見えた。瑛介はまだその場に座ったまま、背後に寝転んだ弥生を見つめていた。彼女はすぐにスペースの大半を占領してしまった。彼は唇を引き結び、しばらく黙っていたが、結局その疑問を口にせずにはいられなかった。「......僕のために持ってきたんじゃないのか?」弥生はその場で横になったまま、彼と視線を合わせた。「そうよ」「じゃあ......」瑛介は戸惑った。もしそれが自分のためなら、なぜ彼女もそこに寝転がっているのか?もし自分のためでないのなら、なぜ「そう」と答えたのか?彼の頭の中は疑問でいっぱいだった。そんな彼の混乱をよそに、弥生は静かに言った。「......君のそばにいようと思って」その一言に、瑛介の動きが止まった。しばしの沈黙の後、彼の目の奥の光が微妙に変わった。先ほどまでの澄んだ光が、今では暗く沈み、まるで獲物を捕らえる直前の獣のように、じっと彼女を見つめるようになった。痛みがあるのは分かっていても、瑛介は身をかがめ、彼女にぐっと近づいた。「......そばにいてくれるのか?本気で?」急に近づいた彼の熱い吐息に、弥生の体がわずかに震えた。心臓がどくんと跳ねるのが自分でも分かっていた。彼の唇が自分のすぐ近くにあることに気づいた瞬間、弥生はとっさに布団を自分の前に引き上げ、そのまま口元まで隠した。いきなりキスされるかもしれないという予感に備えた、反射的な防御だった。案の定、その仕草は瑛介の注意を引いた。彼は目を細めて、からかうように微笑んだ。「わざわざ僕のそばに来てくれたんだろ?それなのに何を怖がってる?」その言葉に、弥生は不満げに反論した。「私は、君が夜中に熱出したり、具合悪くなったりしないか心配だから一緒にいるのよ。それ以外何の意味もないからね。もし君が変なこと考えてるなら、今すぐここから出てくわよ」そう言って、本当に布団を掴んで立ち上がろうとした。「もういい、もういい、行かないで」瑛介は彼女を止めようと手を伸ばした。だが、その動きがあまりに急だったせいで、傷口に触れてしまい、彼は深くうめき声を漏らした。その苦しそうな声に、弥生の表情が
「わかった。着替えてくる」これ以上からかっていたら、彼女は本当に怒ってしまう。そう思った瑛介は、大人しく服を持ってバスルームへ向かった。弥生はそのまま外で待つつもりだったが、ふと思いついたように彼の後を追い、浴室に入る直前の彼に声をかけた。「医者が言ってたこと、忘れてないでしょうね?傷口は絶対に水に濡らしちゃだめよ」ドアを閉めかけていた瑛介は、彼女の言葉にふと足を止めた。彼女を振り返って、軽く笑みを浮かべながら言った。「医者の言葉なら全部覚えてるよ。でも、君が心配なら中まで一緒に入って見張ってくれたらどう?」その言葉に、弥生は即座に言い返した。「調子に乗らないで」そしてくるりと背を向け、立ち去った。瑛介はその背中を見送ったあと、ゆっくりと浴室のドアを閉めた。ドアが閉まった瞬間、それまで抑えていた表情が、一気に崩れた。口元に浮かべていた笑みは消え、代わりに浮かんだのは、浮き上がる血管とにじむ冷や汗だった。傷口は深く、じっとしていてもズキズキと痛んだ。ましてや着替えとなれば、腕を上げたり身体を動かしたりと、痛みが増すのは避けられなかった。彼女の前では痛がる姿を見せまいと、ずっと無理して平気なふりをしていたのだ。脱いだシャツは汗でびっしょりだった。瑛介はそれに一瞥もくれてやらず、すぐさま洗濯機へ放り込んだ。本来ならそのシャツはクリーニングに出すべきものだったが、今はそんなことを気にしていられない。証拠隠滅が最優先だった。着替えを終えて出てくると、弥生はまだそこで彼を待っていた。彼が乾いた服を着て戻ってくると、彼女は彼の全身をじっと見つめ、確かめるように訊いた。「傷は濡れてないよね?」「君があれだけ念を押したのに、濡らすわけないだろ」そう言いながら、瑛介は腕時計に目をやった。「もう遅い。君も休んだほうがいい」それを聞いて、弥生はふと問い返した。「じゃあ、君は?」「僕も休むよ」彼はそう答えたが、弥生はその場に立ち尽くしたまま動こうとしなかった。「......何?」そんな彼女を見て、瑛介はくすっと笑ってからからかうように言った。「......名残惜しい?一緒にいてくれる?」弥生は黙ったまま彼をじっと見つめたあと、ふっと視線を落とした。「別に..
この一言を聞いた弥生は、しばし沈黙に陥った。かつて二人が同じ部屋で寝泊まりしたことがなかったわけではない。でも、それはずっと昔のことだった。それから長いあいだ、二人は顔を合わせることさえなくなり、再会しても、同じ部屋で過ごすことはなかった。そんな中で、突然また一緒に過ごすことになるなんて......弥生の心にわずかな戸惑いが生まれたのを感じた瑛介は、伏し目がちになりながら、彼女の手首をそっと取った。「......僕はひどく怪我してる。そんな僕をひとりにして、君は本当に安心できるの?もし具合が悪くなって、自分でも気づけなかったらどうする?」その言葉に、弥生は彼を見つめた。その表情も、言葉も、いかにも可哀そうアピールが混じっていると分かってはいたが、それでも彼の言っていることが正しいということも、また否定できなかった。あの傷の深さは、自分の目で見たのだ。医者も「基本的には大丈夫」とは言っていたが、「もし何かあれば」とも付け加えていた。......まあ、そもそもあの部屋は彼の部屋だったのだ。そこに戻らせたって、別におかしいことではない。それに今の彼は怪我人で、何かをしてくる余裕なんてないはずだ。そう思うと、弥生の中にあった警戒心も自然とほどけていった。「......行きましょ」彼女が了承すると、瑛介の黒い瞳の奥にふわりとした喜びが浮かび、唇の端には美しい笑みが浮かんだ。そして彼は、手を放すどころか、彼女の手をしっかり握ったまま、共に歩き始めた。部屋に入ったあと、弥生はまずソファの上に置いてあった荷物を片づけ、次に寝室を確認しに向かった。部屋の中では、ひなのと陽平が静かに眠っていた。弥生はそれを確認すると、そっと部屋を出た。彼女が気を使って静かに扉を閉めたのを見て、瑛介が小声で尋ねた。「......みんな、もう寝た?」弥生はうなずいた。「うん。ずっとあなたを待ってたけど、一日中移動して疲れ切ってたから、もうぐっすりよ」その言葉を聞くと、瑛介は弥生に歩み寄り、腕を回して抱きしめた。「......ごめん。ちゃんと守れなくて、君たちに苦労かけた」以前の瑛介は、清潔感のある涼やかな香りに加えて、草の匂いが混ざるような、どこか自然を感じさせる香りがした。だが今、彼の身体からは血と汗
「でも先生も言ってたじゃないか。命に別状はないって。引っ張って痛むくらいなら、ちょっと我慢すれば済む話だろ?君が用意してくれたものをさっさと食べて、すぐ戻って薬飲めばいい」弥生が口を開いて止めようとする前に、瑛介はすでに立ち上がっていた。「行こう」「本当に来るの?君、傷が......」「行くよ」彼女がまだその場から動かないのを見て、瑛介はやや強めに言った。「早く行けば早く戻れる。君がうだうだしてたら、僕は今日中に薬飲めなくなるぞ?」結局、弥生は折れて、瑛介と一緒にキッチンへ向かった。途中、音を聞きつけた健司が確認のために様子を見に来て、二人がキッチンへ行くと聞いて、「料理長を起こしましょうか」と提案してくれた。だが時間がもう遅かったため、弥生はそれを丁寧に断り、健司もそれ以上は言わなかった。キッチンで、弥生は冷蔵庫の扉を開け、中を覗き込んだ。中は食材でぎっしりと詰まっており、必要なものは何でも揃っていた。彼女はざっと見てから、簡単に作れるものをいくつか選び、鍋に水を張って火にかけた。時間も遅かったため、あまり重たいものは良くないと判断した弥生は、麺と少量の具材、野菜を入れて煮込み始めた。手順はシンプルだったが、瑛介は黙ってその様子を見守っていた。「もう夜遅いし、たくさん食べると消化に悪いから。ちょっとだけ食べて、薬飲めばいいでしょ」瑛介は素直に答えた。「わかった。君に任せるよ」その素直さに、弥生は少し驚いたが、特に何も言わず、火加減を少し強めて麺が茹で上がるのを待ち、火を止めた。そして、できあがった麺を器に盛り、瑛介の前に差し出した。「はい、どうぞ」瑛介は目の前の食べ物をじっと見つめた。ほとんど何も入っていない、実にシンプルなどんぶりだった。わずかな具材と野菜、そして玉子がひとつだけ乗っていた。でも、彼にとっては何よりも特別な一杯だった。彼は箸を取って麺を少しすくい、口に運んだ。思ったとおりのやさしい味が広がった。一口食べてから、真っ直ぐ弥生を見て、真剣な声で言った。「ありがとう。すごくおいしい」弥生は一瞬手を止めて、目を瞬いたあと言った。「ただの素うどんよ?別に美味しくはないでしょう」食べ終わると、弥生はさきほどポケットに入れていた薬を取り出し、テーブルの上に並
部屋の中ではまだ明るい天井灯が煌々と照らしており、まるで昼間のようだった。瑛介はシャツを半ば脱いだままソファに座り、弥生が薬の説明書を手にして丁寧に読みながら、服用すべき薬を種類ごとに仕分けているのをじっと見つめていた。彼女は時おり顔を上げ、またすぐに視線を落とした。腹の傷はずきずきと痛んだが、それ以上に、彼女が自分のためにここまで真剣にしてくれていることが、たまらなく嬉しかった。その満足感は、ただ表面的な喜びではなく、深く心に刻まれていくようなものだった。そんなふうに彼女を見つめていると、ふいに弥生が顔を上げて、きりっと眉をひそめて彼を見つめてきた。その視線に引き戻されるようにして、瑛介は我に返った。「どうした?」すると、弥生がいきなり尋ねてきた。「君、晩ご飯食べたの?」「なに?」「食べてないよね?この薬、食後に飲むものよ」「そうか?」瑛介はあっけらかんとした様子で、「じゃあ、明日飲めばいいだろ」「だめよ」弥生は即座に否定した。「君、あんなひどい怪我してるのよ?今すぐ薬を飲まなきゃ」そう言いながら、彼女は立ち上がり、そのまま部屋の外へ歩いていこうとした。瑛介は顔をしかめて立ち上がろうとしたが、彼女に肩を押されてソファに戻された。「そこで待ってて。キッチンに何か食べられるものが残ってるか見てくるわ。何か食べてから薬を飲むの」「......こんな夜中にわざわざ?キッチンにろくなものないだろ」そう言って、彼は手に薬を取り、「空腹で飲んでも平気だよ」と言いかけた時に......「だめ」と弥生は即答した。「前に胃から出血したこと、もう忘れたの?この薬は胃に負担がかかるの。空腹で飲んだら、また胃をやられるわよ?今度はその上に怪我までしてるのよ」瑛介は、彼女に言われてようやく思い出した。ああ、そういえば......前に胃から出血したときも、彼女は心配して来てくれた。そのとき、ようやく彼女が自分を少しは気にしてくれているんだと思えた。そして今も、彼女が自分のことをこうして気にしてくれるのは......怪我をしたからなのか?そう思うと、ふとした不安が胸に広がった。小さな声で尋ねた。「......怪我したからなのか?」「え?」「僕が怪我してるから、だから心配して
弥生は、瑛介が普段のかまってちゃんな性格からして、よほどの怪我でもなければ自分に見せないなんてことはしないだろうと予想していた。でも、まさかここまでひどいとは思わなかった。そう思うと、彼女は唇を噛みしめ、突然彼の手を振り払って、医者の方を見つめて問いかけた。「先生、この傷......命に関わるものではないんですよね?」「はい、致命傷ではありません」「でも......見た目はかなり酷いですよ」「ええ、確かに見た目は恐ろしいですが、もう少し深かったら命に関わったかもしれません。ただ、幸いそこまでではないので、しっかり処置して、水に触れないようにすれば問題ありません」医者は軽い調子でそう言ったが、弥生はひとまず命に別状がなかったことに安堵しつつも、すぐに横目で鋭く瑛介を睨みつけた。視線を避けるように、瑛介はふと目を横にやった。ちょうどそこにいたのが健司だった。まるで「全部お前のせいだ。医者連れてくるときに、なんでドア閉めなかったんだ?弥生に聞かれたじゃないか」と言われたような感じだった。処置が終わると、医者は内服薬をいくつか瑛介に処方し、弥生の希望で全身の検査も行った。他には特に外傷は見つからなかった。医者が部屋を出ていこうとしたとき、瑛介はぼんやりと手元の薬を見つめていた。小さな白い錠剤がいくつも並んでいて、見るだけで頭が痛くなった。正直、今すぐ全部ゴミ箱に捨てたい気分だった。ちょうどそのとき、ドアの方から話し声が聞こえ、顔を上げると、弥生が医者と一緒に出口の方へ歩いていくのが見えた。「本当に、もう検査の必要はないんですか?たとえば、内臓とか......目に見えない怪我とか」医者は困ったように笑いながら答えた。「霧島さん、検査すべきところはすべて検査しましたし、検査すべきでないところも......まあ、一応確認しました。一般的には、問題ないはずです」「『一般的』って、例外もあるってことですよね?じゃあ、その例外って......」「いやいや、霧島さん、本当に問題ありませんよ。もし万が一のことがあれば、私はここにいますから。電話でも、直接でも呼んでくだされば、すぐに駆けつけますから。どうぞ安心してください」医者がここに常駐していると聞き、弥生はようやく安心した。彼女は、もし医者がどこかに行っ
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